2019.08.30 なぜ、ガチャは50年も生き残ったのか?(前編) ガチャの歴史をひもとき、その謎に迫る #インバウンド #クリエーター #デザイン CREATIVE特集:TEC SOLUTION 「ガチャ」というビジネスが日本で始まったのは1965年。東京オリンピックの翌年です。このデジタル全盛の時代に超アナログな「ガチャ」が50年以上生き残り今なお緩やかな成長をしています。この謎に迫るために、1990年代から「ガチャ」ビジネスに携わり歴史にも詳しい日本ガチャガチャ協会 会長 小野尾勝彦氏とガチャブランド「パンダの穴」のクリエーティブディレクター飯田雅実氏が対談を行い、「ガチャ」の歴史にスポットを当てます。前編は「ガチャ」創生期からスタートします。 お問い合わせ 目次 「ガチャ」とアメリカの意外な関係 日本の「ガチャ」の創世記 1970年ガチャメーカー戦国時代 大手玩具メーカーという黒船到来 伝説の会社ユージン登場 「ガチャ」とアメリカの意外な関係 飯田 今日は、私のガチャの師匠でもあります、小野尾さんをお迎えしました。 小野尾 いやいや、とんでもございません。 飯田 ガチャについて、いろいろとお伺いしたいと思っています。今回のテーマは、「なぜ、ガチャは50年も生き残ったのか?」についてですが、最初に、ガチャの歴史にスポットを当てていこうかなと思っているんですが。まず、ガチャは日本の発祥だと思っている方が結構いらっしゃると思うんですけども。最初は、ガチャの発祥について教えていただけますでしょうか。 小野尾 ガチャガチャはもともと、アメリカ・ニューヨークの駅が発祥と言われています。1880年代にマシンが置かれて、もともとはガムボールマシンから始まっていまして。 飯田 これですよね? 小野尾 それですね。それがほんとに一番初めと言われています。 飯田 これが1880年代に? 小野尾 1880年代に、このマシンが最初に置かれたマシンと言われていて、ガムのほかにも鉛筆とか絵葉書であるとか、そういうものを売られていたと言われています。 飯田 これは、何が出てくるかわからないとか、何かハンドルを回すとか、そういったものはあるんですか? 小野尾 今の原型というよりは、どちらかというとガムが主体のマシンだったので、今の形というわけではないですけど、基本的に「ガチャガチャと言われる自動販売機で、いろいろと商品を出していこう」というのは、ここが発祥と言われていますね。 飯田 いわゆる自動販売機ということなんですかね? 小野尾 そうですね、自動販売機です。 飯田 その次のステップは、どんなカタチになりますか? 小野尾 このあと、1940年ぐらいまで話が進みますが、ちょうど戦争が始まる前ぐらいですかね。そこで、ガムのほかにおもちゃが入った商品も売られるようになるんですよね。これが、実際に置かれていたマシンでガチャメーカーのオーク社という。 飯田 オーク社? 小野尾 はい。オーク社という、アメリカのガチャメーカーがあって。そこのマシンなんですけど。この中にガムのほかに、おもちゃも入っていて。今みたいなカプセルの中に入っているような形ではなくて、1回まわすとバラバラおもちゃが出てくるような感じで、子どもたちはおもちゃがほしくて、この商品というかガムが売れたので、「もしかしたら、おもちゃだけをカプセルに入れた方がいいんじゃないか」というので、カプセルの中身がおもちゃになっていきました。 飯田 最初はおもちゃが当たりか何かの役割をしていたのが、それがヒットしたことによって・・・ 小野尾 独立して、実際におもちゃだけのガチャガチャができるのが、1945、46年くらいですかね。 飯田 戦争が終わったくらいですね? 小野尾 そうですね、はい。その中身自体は日本で作られていて。終戦時期ですね。このころアメリカが買い付けていた商品で日本で作られていた物がこれです。 飯田 貴重ですね。 小野尾 はい。で、買い付けていた人があの人。 飯田 ハードマンさん? 小野尾 そうそう。L.0.ハードマンという人が買い付けをしていたと。そう。1945、46年ぐらいに。 飯田 ほんとに戦争が・・・ 小野尾 終わったぐらい。 飯田 終わったぐらいですね。この、日本で作ったものをアメリカに輸入していたと? 小野尾 輸入して、それをアメリカのマシンの中に入れるビジネススキームを作っていた。 飯田 このハードマンさんについて、もう少し教えていただけますか? 小野尾 ハードマンさんは、もともとPENNY KINGという会社をやられていて、その会社がガチャビジネスというか、ベンディングマシンビジネスをやられていたみたいですね。 飯田 ベンディングということは自動販売機? 小野尾 自動販売機ですね。中に入れる物自体は、セルロイドでできたフィギュアみたいな物やアクセサリーとかチャームとかが売れていたので、そのチャーム自体を日本やいろんな国から買って、当初は多分、アメリカとかでも作られていたんでしょうけど、コストが合わなくなったので日本から輸入して、それをアメリカのマシンに入れて、子どもたちに買ってもらうようなビジネスを作っていたみたいですね。 飯田 当時の日本人は、これが一体何に使われているかって・・・ 小野尾 わからないですね。日本の終戦後って葛飾区にブリキ工場があって、そのブリキをアメリカに輸出していたように、同じように日本でガチャガチャの中身が作られて、それをアメリカに輸出していたんですよ。 飯田 こういうセルロイド以外でも、ブリキのおもちゃとかも? 小野尾 ブリキとか、あと貝細工とか。 飯田 日本の人件費が安かったっていうことですね。 小野尾 そうですね。 飯田 当時、日本人は、このおもちゃが何に使われているのか知らなかったと聞いていますが、なぜアメリカは教えなかったのでしょうか? 小野尾 聞かなかったからじゃない?「教えても、わかんないから」っていうので。 飯田 そうなんですね。 日本の「ガチャ」の創世記 飯田 そうこうしてるうちに、日本にガチャビジネスが入ってきますが、そのきっかけを作られたのが・・・ 小野尾 そうですね。このハードマンさんです。 飯田 その辺りの話もお伺いできればと。 小野尾 そうですね。1965年の2月17日に。 飯田 2月17日? 小野尾 そうそう、「ガチャの日」というふうに言っているんですけど。なんで「ガチャの日」かというと、もともとペニイさんっていう会社がハードマンさんと取引をしていたパンアメリカン貿易っていう貿易会社があって。その貿易会社を通して、アメリカにこのおもちゃを輸出していたんですよね。そのうち、このハードマンさんから、「これ実は、ガチャガチャっていうビジネスなんだよ」っていうことを、重田哲夫さんという、パンアメリカン貿易の方が聞いて。「面白そうだから、じゃあ、このガチャを日本に持ってこよう」と言って、1965年に「じゃ、せっかくだから」というので、ペニイ商会さんっていう会社を作るんですよ。 飯田 それは、ガチャを持ってくるためだけの会社ですか? 小野尾 そうです。2月の17日に設立される「ペニイ商会」さんっていう会社を、重田哲夫さんと重田龍三さんという、ご兄弟なんですけど。この2人で会社を立ち上げまして。 飯田 今でもまだあるんですよね。 小野尾 これが、タカラトミーアーツさんのグループ会社なんですよ。だから、来年55周年を迎えます。 飯田 当時、「ガチャを日本で広めよう」と言ったときに、どういう戦略をとったのでしょうか? 小野尾 戦略というかほぼベンチャーなので、子どもが集まる駄菓子屋さんに目をつけて、そうこうしているうちに「ガチャが売れてるよ」っていうのを聞きつけて、『アサヒグラフ』っていう雑誌があって、1965年に取り上げられるんですよね。 飯田 割とすぐ取り上げられたんですね? 小野尾 そうそう。結構、早めに取り上げられて、多分めちゃくちゃ売れていたからだと思うんですよ。あと、子どもたちがあんなふうにみんな集まって、結構駄菓子屋さんの前とかにガチャを置いたりしてたので、それが評判になって『アサヒグラフ』さんに取り上げられて。それから「ガチャガチャ面白いから」っていうので、いろんなメーカーがガチャに参入してくる。 飯田 それは割と早い段階で、バーッと広まったような感じなんですか? 小野尾 そうですね。もう4年後ぐらいには結構それなりのボリュームになって、会社自体が大きくなっている感じですよね。これが、ペニイさんのガチャ教本。重田龍三さんが昭和44年に制作されたものです。 飯田 すごいですね。手書きですね。 小野尾 面白いのが、このガチャガチャってまだその当時、何だかよくわかんないじゃないですか、だから「何なのか?」と聞かれたら「こういうふうに言いなさい」っていうのが、ちゃんと書いてあるんですよ。 飯田 日本で最初だから自分たちで考えるしかないんですね。 小野尾 そうそうそう、「こういうふうにしろ」っていうね。面白いんですよね。「仕事の知識」とも書いてあって。 飯田 そういうことも書いてあるんですね。 小野尾 そうなんですよ。「ガチャガチャで、あまり商品で当たりはずれを出すな」って書いてあるんですね。「それは悪夢」って書いてあるんですよ。 飯田 いいですね。 小野尾 名言が書いてあるんですよ。「ガチャガチャとは」って言ったときに、それを売り過ぎると悪夢って言われるからって書いてあるの(笑)。 飯田 「子どもをだましちゃいけないよ」っていう・・・ 小野尾 そうです。「子どもをだましちゃいけないよ」っていうことが書かれているんですよね。「社会的使命」と書いてある。すごいですね。 飯田 そういえば、ハードマンさんも名言残されていますよね? 小野尾 そうですよ。「ミディアムハピネス」という「商売はほどほどにしろ」っていう、「あまりもうけんじゃないよ」っていう。 飯田 このころのガチャの中身は、日本製ですか? 小野尾 日本と香港の半分半分ぐらいですかね。 1970年ガチャメーカー戦国時代 飯田 それから少し経つとガチャメーカーが、日本で増えてきたと聞いてますが。 小野尾 メーカーは大阪の林商会さんっていう会社ができたりとか、共同さんとか、ビームさんとか、今野産業さんもそうですけど。プラスチックが普及する時代ぐらいに、ガチャにも結構影響があって、型物ができるようになるので、プラレールもそうですけど、そういう会社がどんどん広がる時期だと思うんですよね。そのときにガチャメーカーが乱立していきます。 飯田 それは何年ぐらいですか? 小野尾 1970年ぐらいにはいろんなところが、ガチャのメーカーやるような感じになっていくんですね。 飯田 割と早い段階で、ガチャのメーカーが乱立する時代になったと。 小野尾 はい。ガチャガチャ戦国時代ですね。いろんな会社が、どんどん出来上がっていきました。 飯田 木型は70年代に入ってからなんですか? 小野尾 70年前後からです。もともと70年代は、ガチャをやってる会社は今野産業さんとかも、お土産も作っているんですよ。 飯田 そうなんですね。 小野尾 お土産流通ってやっぱり、昔からあるじゃないですか、お土産の商品を作るときに木型も作ったり、能面の木型とかもあったりしてて。 飯田 なるほど。 小野尾 そうそう。京都のお土産とか、キーホルダーとかあるじゃないですか。 飯田 そういうのも作ってるんですね。 小野尾 そうそうそう。ああいうのも作っていたらしいです。 飯田 その技術を使ってこういうガチャの木型も作っているんですね。 小野尾 そう。もともとその職人さんたちも、そういう職人さんなんです。木型職人。お土産とかを作ってる。猫とかあるじゃないですか、だるまとか。 飯田 ありますね。 小野尾 それから、これいいですよ。これ、ちゃんとミニ本になってるんですよ。ミニ本になってて、ちゃんとルーペが付いてる。このルーペが付いてるところが、なんか粋じゃないですか。ほら、なんか。 飯田 すごい、すごい。 小野尾 このワンギミックが、ミニ本だけじゃないっていうところが、なんかすごい。ほら、見えるから、ほら、ほら。 飯田 あ、本当だ。見える。 小野尾 すごくない?普通、だってミニ本だけでいいじゃないですか?そこに、やっぱりルーペを付けるっていう、そこのアイデアはガチャっぽいんだよね。これがないとガチャっぽくないっていうか。 飯田 でもこれ、その当時の作ってる人は間違いなく、楽しんで作ってますよね。 小野尾 ガチャってオリジナル商品が多いから、ワンギミックとかネタとか、作っているときに楽しめるっていうか、そういうのが多いんじゃないですかね。 飯田 こういうのも、当時打ち合わせしながら、いろんなアイデアを出しながら、 小野尾 はい、おっちゃんたちが。 飯田 作ってるんですよね。 小野尾 そう当時、ガチャガチャに夢をかけた人たちが、子どもが何欲しいものを一生懸命に考えて、 飯田 「これ、面白いんじゃないか?」みたいな感じで。 小野尾 そうそう。 飯田 私の年代でいうと、70年代というと、スーパーカー消しゴムが記憶にあるんですが、これも木型ですか? 小野尾 木型で作っていました。今だと、ロウ原型になりますが。70年代、80年代ぐらいが、ほんとにそういう型物になるんですね、プラスチック、フィギュアとかも。 飯田 そうなんですね。 小野尾 消しゴムっていうか、フィギュアとか、ああいう打ちっぱなしみたいなのが出てくる。 飯田 なるほど。70年代から割と今の流れに近くなってくるんですね。 小野尾 そう。流れには近くなってくるけど、偽物が多い。 飯田 そうですね。 小野尾 怪しい物ばっかり。この世に出せない物ばっかりで、ちょうど70年代がテレビとかがはやり始めるころだから、テレビと全部シンクロしてるじゃないですか、だからテレビではやっている物を作っている時代。 飯田 ギョロミーバっていうのは、あれオリジナルなんですか? 小野尾 ギョロミーバはもともと、トミーが発売していたミーバっていう商品があって。それをガチャ用に目玉付けて編集してギョロミーバになりました。 飯田 それ、ヤバイですね。ギョロミーバ。 大手玩具メーカーという黒船到来 飯田 そういうカオスな時代があった次に、大手玩具メーカーが参入する時代になってくると思うんですけども。大手メーカーがガチャビジネスに入ってくる背景というか、何かあるんですかね? 小野尾 もともと、アニメとかのテレビキャラクターっていうコンテンツ自体が、アニメとか70年代から始まって、80年代もそうですけど、あるじゃないですか。 飯田 テレビブームですよね? 小野尾 テレビブームだから、そのテレビブームに乗っかってガチャ自体を1つの武器にして、当然、ガチャガチャ自体は売れてたっていうのは、みんな知ってるので、「じゃ、これ絶対ガチャで売れるだろう」というので始まってるんですよ。消しゴムっていうカタチでフィギュアにして。 飯田 大手が参入するころは、もうインフラは割と出来上がっていたんですか?それとも、大手が入ったことによって、さらにインフラが広がった感じですか? 小野尾 大手が入ってインフラができたのと、あと版権問題も整備されました。 飯田 そのカオスの時代の終息ですね。 小野尾 そうです。 飯田 100円のガチャが誕生したのはこのころですか? 小野尾 そうですね。このころから100円でした。 飯田 その前は、10円ですか? 小野尾 10円だとか、50円とかがあって、でも、ペニイさんも100円はやっていたんですよね。そのときに「大人にガチャガチャを売ろう」っていうので、ボーリング場に持っていったとか。 飯田 なるほど。 小野尾 そうそう。「アメリカというか、香港からいろんなアクセサリー系の商品を、大人に向けてできないか?」って言って結構アクセサリーを買い付けて、それを、100円機に入れて売ってたんですけど、キャラクターではないんでなかなか売れなくて、結構苦戦したらしいです。 飯田 ほんとに大人が普通に買うような物を、ガチャガチャにして売っていたと? 小野尾 そうです。 伝説の会社ユージン登場 飯田 そういう70年代80年代があって、少し飛びますが小野尾さんが在席されていた伝説の会社ユージンが、多分80年代後半に出てくると思うんですけど。 小野尾 そうですね、はい。 飯田 その辺りの話もお聞かせ願えれば。 小野尾 はい。ユージンっていう会社は、1988年にできるんですけど。その前の1986年にトミーのグループ会社として東日本橋にユージンという会社が実はできていて。 飯田 そうなんですか? 小野尾 そのときすでにガチャを若干ビッグマシーンという電動マシーンを外部の会社から仕入れて販売をしてました。 飯田 そのころからガチャの販売をしていたんですね。 小野尾 電動マシーンで当たるともう一回できる面白いマシーンだったのですが、コンセントが必要であまり普及せず、それとともに東日本橋のユージンは会社をたたむことに。 飯田 なるほど。それが正式なスタートの年なんですね。 小野尾 そうなんですよ。立石本田ビルという、トミーのブリキの工場だったところに新生ユージンが立ち上がります。15名くらいで、それが今のタカラトミーアーツさんのガチャ部門の一番最初の原型ですね。1988年2月の9日にユージンが出来上がって。そのとき、小物トイがメインで、ガチャと玩具菓子を扱う会社で、15名でやり始めて。 飯田 そうなんですね。 小野尾 そう。ガチャとかもトミカとかの消しゴムを作ったり、黒ひげ危機一髪のミニダルとか、そういうのができ始めて。少しずつ少しずつ、トミーが商品化しているキャラクターとかもやり始め、ガチャが少しずつ売れていくようになりました。 飯田 小野尾さんが入社されたのは、90年代なんですか? 小野尾 自分が入社したのは、94年なので。 飯田 バブルが崩壊後ですね。 小野尾 はい、そうですね。 飯田 世の中はそのバブル崩壊で大変なことになっていたんですけども、ガチャの市場はどんな感じだったんですか? 小野尾 ガチャは比較的、UFOキャッチャーとかもそうなんですけど、エンターテインメントっていうところは、まだまだ結構売れてる市場で「目新しいものとか、面白いものをやっていこう」っていう、そういうのが結構あって、エイベックスさんも同じ時期に創業されてCDが売れた時期と重なっています。そうじゃないですか。 飯田 割と元気が? 小野尾 元気がありましたね。みんなやっぱりバブルが崩壊して、もうかっていところもありましたが、UFOキャッチャーとかガチャとかは結構元気でした。 飯田 でも、今も景気そんなよくないじゃないですか。でも、ガチャは安価で楽しめると言いますか。意外と不況に強いと思うんですよね。 小野尾 そうですよね。小銭っていうか高額な物じゃないので買いやすいと思います。 小野尾 勝彦 日本ガチャガチャ協会 会長 1994年株式会社ユージンに入社。この時ガチャビジネスと出会い数多くの商品を手掛ける。その後大手玩具メーカーの株式会社タカラトミーアーツを経て2019年に独立。 現在もガチャガチャの普及に取り組んでおり、ガチャガチャの歴史の探求やガチャガチャの講演などを行っている数少ないガチャガチャの伝道師 飯田 雅実 株式会社 電通テック シニアクリエーティブディレクター 広告領域で様々な企画制作を行うなか数多くのプレミアムグッ ズを手掛けたノウハウを活用し2013年ガチャブランド 「パンダの穴」を株式会社タカラトミーアーツと立ち上げる。 「パンダの穴」は累計3,000万個を突破し昨年台湾で初の単独イベントを行い16万人を動員するなど、国内外で活動のフィールドが広がっている。 電通テック パンダの穴 後編はこちら Written by: BAE編集部 関連記事:なぜ、台湾は「ガチャ」に夢中なのか?(前編) 関連記事:なぜ、外国人旅行者は空港でガチャを買うのか?